『東洋の対話』と『西洋の対話』― 求められる「弁証法的発展」

 新型コロナ感染が発生し早8カ月、遠距離の自宅に帰ることも儘ならない単身赴任の身、閉じこもり生活にもすっかり慣れてしまったこの頃、改めて家族や同僚、友人そして国と国など様々な『距離』についてあれこれと考える。

 中国語で『人間』とは、「人と人との間、空間」のことであり、引いては「世の中」を意味する。他人や社会・組織また他国との関わりにおいて、適度の間合いを有することは、昔から求められてきた。この『距離』感こそが、様々な思考を生み出す得難い空間なのかもしれない。

 論語も西洋哲学も、複雑に変化する現代社会において人はいかに生きるべきかについて完璧な解は持ち得ないかも知れないが、人間の永遠の課題、すなわち『正義』とは何かを問い続けることを、様々な混乱を抱える今日、改めて求められている。

 論語は孔子と弟子との『対話』の形で書かれているが、それは基本的に問い、師(主として孔子)が答える形となっている。一方、西洋哲学においても『対話』が重視されてきた。プラトンは、その著書のすべてを対話形式で書いたことで知られており、大部分に師ソクラテスを登場させ、当時のいろいろな立場の人を対話者に選んで、「問答」させることにより『真理』を追求したことは同じである。

 但し、「東洋の対話」と「西洋の対話」は次の点が相異している。
 論語の対話は弟子が質問し、先生がそれに応える。弟子はそこで受け取った言葉を自分の中で育てていく。一方、プラトンの著作では、一回質問して、一回応えて終わり、ということではなく師ソクラテスが様々なテーマに対してどんどん質問して、議論を進めてゆく。 また、近代の哲学者ヘーゲルは、一人の主張-それへの反論-二人の納得という、いわゆる正・反・合の議論により『真理』を追究できるとし、この伝統的な方法を定式化し、『弁証法』として確立させた。(齋藤孝『論語力』P.103〜107参照)

 論語には問答は少なく、方向性や真理について明示されているものの、弁証法による止揚(アウフヘーヴェン)の過程については多くを記されていない。

哀公問曰、何爲則民服。孔子對曰、擧直錯諸枉、則民服。擧枉錯諸直。則民不服。
【為政第二 19】
(読み下し分)哀公問うて曰わく、何を為さば則ち民服せん。孔子対(こた)えて曰わく、直(ただし)きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば則ち民服す。枉れるを挙げて諸れを直きに錯けば則ち民服ぜず。
(現代語訳)哀公が孔子に「どうすれば民衆が私に従ってくれるだろうか?」と尋ねられ、孔子はこう答えられました、「もしあなたが誠実な人間を登用して不誠実な人間の上に置けば、民衆は御意志に従いましょう。もしあなたが不誠実な人間を登用して誠実な人間の上に置けば、民衆は決して御意志に従う事は無いでしょう。

子路曰、君子尚勇乎。子曰、君子義以爲上、君子有勇而無義爲亂、小人有勇而無義爲盗。
【陽貨第十七 23】
(書き下し文)
子路(しろ)が曰わく、君子、勇を尚(とうと)ぶか。子曰わく、君子義を以て上(かみ)と為す。君子、勇有りて義なければ乱を為す。小人、勇有りて義なければ盗を為す。
(現代語訳)
子路(しろ)が尋ねました、「人々の手本たるべき人格者は、勇気を尊びますか?」孔子は答えられました、「人格者は勇気よりも正義を重んじる。人格者に勇気があっても正義感がなければ、争いの種となる。つまらない人間に勇気があっても正義感がなければ、盗賊になるだけだ。」

 最近の日本や近隣諸国のもろもろの情勢を見聞きするにつけ、それぞれの国・地域の為政者や市民の発言に、「東洋の対話」と「西洋の対話」の違いを感ずるのは、自分だけであろうか。
 いま我々アジアに生きる人間が求められているのは、これまでの「東洋的な対話」を  更に真に『弁証法』的な議論にまで発展させ、今一度『真理』や『正義』とは何かについて議論し、争いの解決の糸口を求めていくことではないだろうか。

(平山 記)