神社巡りと注連石(しめいし)についての一考察

 福山は、市街地中央を流れる芦田川が南東方向の瀬戸内海に流入しているが、河口部まで山地が入り組む独特の地形のためか、高台に立って見回すと、四方が山に囲まれているような感じを受ける。

 山や小高い丘として見える箇所も、かつては島であり、あるいは入江であったが、先人が長年に亘り島と島、入江と入江を線で結びつけ、干拓事業を遂行し、生活の基盤となる広い平地を造成してきたと言われる。

 私は平野部(関東平野)での生活時期が比較的長かった。快晴時に山岳地帯がはるか遠くに見える。ただし遠いので気軽には行けない。福山では、山が非常に身近に感じられる。山に短時間で足を伸ばせることのできる生活空間は、精神衛生上極めて良い。

 さて福山には、山の麓や中腹に地形をうまく利用して建てられた神社が数多く存在する。折角の機会でもあり、見聞をひろげようと、これまで全く関心を寄せることのなかった神社巡りを始めた。当初はご朱印集めを目的に参拝を行うつもりが、実際に出かけてみると、大きな神社は別として、神職さんが常駐しない無人の神社がかなり多く、ご朱印をすべての神社から拝受するのは不可能であると理解した。年末年始や夏や秋の例祭を除くと、普段は訪れる人も数少ないようだ。神社は日本全国に大小約8万か所あると言われ、平均すると、各都道府県に約2000か所が存在する計算になる。福山市の面積は518平方キロ、広島県面積8480平方キロの6%を占めるので、この比率で計算すると120か所程度が鎮座することになる。自転車を主な移動手段としている私にとり、肉体的負担を第一に考えると、福山市内すべての神社にお参りするのは、難しい。地図で下調べして大丈夫そうだ、と判断しても、実際道路を進むと、途中で、長く傾斜が急な坂道を経由せざるを得ないことも多く、自転車を下りて、せっせと押して登らないと到達できないことも多い。それでも、ようやく目的地を探り当て、100段から200段の傾斜のきつい階段を上り、拝殿にたどりついた時の高揚感(実際はかなり息があがっているのだが)や達成感は捨てがたい。御朱印の有無は二の次、由緒、祭神、建築様式、境内の配置、ご神木など千差万別、緑豊かな空間に身を置いて、拝殿の前で手を合わせ、短期間でも心の平穏を保つことができるなら、それで十分だ。

 人口減少や高齢化がすすむなかで、境内や社の維持管理に宮司さんや地域の氏子さんが負担する費用や労力は大変であるはずだが、どの神社でも境内が掃き清められている。地域と一体化した神聖な領域であることを静かに自己主張しているかのような独特の空間だ。

 さて、神社と言えば、通常、鳥居、狛犬、拝殿、本殿など典型的な建築物に目が行くが、さらに興味をひくものとして、注連石(しめいし)または注連柱(しめばしら)という石柱がある。鳥居や拝殿の前に一対で建てられており、高さは平均2,3メートル、角柱または円柱で注連縄が張られているものもある。注連石は鳥居の原型とも言われているようである(鳥居がなく注連石だけの神社もある)。その石柱に彫られている対の語句(祈願文)がどれも秀逸なのだが、大和言葉で読まれる祝詞を含め、日本的な要素が濃厚な神社において、この祈願文は、漢語、漢文で作成されているのである。かつては、漢文を自由に使いこなせる文化人がそれぞれの地域に比較的多く存在したのだろうし、また祈願文の作成に際し、敢えて意識して「中国的なるもの」を取り入れたわけではないと思われる。しかし、石柱として半ば永久的に境内の入り口に建立される以上、字体を含め、格調高い祈願文とすることに発願者、寄進者はいろいろと智慧を絞った筈だ。やはり和歌よりも表意媒体として視覚的効果も高い漢字漢文に軍配が上がるののか。以下いくつか祈願文を例示する。

 天祐     神助 (「天祐」が向かって右の柱に彫られており、神助が左の柱、以下同様)
 敬神祇    愛子孫
 神徳無窮   光被四表(光は四表をおおう)
 至誠通神明  国家茲安泰
 祭祀不怠   神威兢兢(キョウキョウ)
 万世太平   四海同胞
 天下泰平   五穀成就
 允文而允武(インブン、インブ)  四海爰平静
 威霊護皇基  懿徳(イトク―立派な徳)保群黎(グンレイ―多くの人民)
 維普天祖降臨月  啓導偉勲推此神

 文字数が多くなるにつれ、語句の意味も凝ったものになるが、以上の例は、神社の規模や祭神、由緒などにあまり関係がないように見受けられる。

 一方、おつるぎさん、と呼ばれる福山今津に鎮座する古社高諸神社の注連石には、
 赫矣威霊傳寶劔(宝剣)  巍然(ギゼン)廟宇帯卿雲(ケイウンー目出度い雲)
と、記され祭神(剣大明神)との関連が見てとれる。
 神武八荒服 皇威萬國輝 という文字が刻まれた注連石がある。これは、福山田尻に鎮座する田尻八幡神社にあるが、この地は神武東征ゆかりの地(吉備高島宮の跡地)の一つとされ、伝承との関連が容易に推察される。

 ちなみに、一般に、大部分の神社では正確な創立年が「あまりに昔のことなので不詳」とされている。「しめいし」も各神社創立当初から存在したものではなく、江戸時代に寄進により建立されたものが多いようだ。

 誰が何をきっかけに、注連石を建てようと発願したのか、祈願文は誰がどのように決めたのか。

 注連石は瀬戸内海沿岸の神社に比較的多く分布するようだ。これは、瀬戸内海沿岸に良質の花崗岩が多く産出し、また石工も多く存在したこととも関係があるようだ。注連石は、人目を引くものではないが、寄進者の思いは別として、漢字や漢学の素養が、社会にいかに広く浸透していたかという証左でもあり、寄進、建立された神社周辺の集落や社会における文化の成熟度を示す証左でもある。

 これからも、訪れた神社の注連石を観察し、いろいろと思いをめぐらせたい。

(藤野 記)

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